センボウにっき

カタチにしていくカテイ

ぼくが伊藤計劃に惚れた理由

 

伊藤計劃記録 ? (ハヤカワ文庫JA)

伊藤計劃記録 ? (ハヤカワ文庫JA)

 

 

メタルギアを知って、伊藤計劃を知って、伊藤計劃に惚れぼくは伊藤計劃にゾッコンである。

 

伊藤計劃はある種、ぼくと同じくくりにするのも忍びないが、夢想家である。

病床で受容し続けた作品群から構築された理論なり思想なりを垂れ流すことで、彼は自分がそこにいることを自覚し続けたように感じる。

根底にあるのは「自分がテクノロジーによって生かされている」という認識と、そこからくる「自身の異物感」

 

前者は違うとして、ぼくは全く別の経路をたどって「自身の異物感」を感じている。

恐らくそこから伊藤計劃に惚れこんだのだろう。

他の自分語りとは違うのは、徹底的な自己認識の否定と排除から来るという、一見矛盾しているような構図からなのだろうと感じる。

 

虐殺器官』で、人間の脳という器官が、思考という器官が、コトバによって変わっていくサマが描かれた。それは自身の「決断」だとか「意識」だとかそんなものが、大河の中の石ころとして描かれるサマだった。そして逆説的に、自分自身の意思とか自意識とかいうものを、過剰なまでに感じて執着することに終着した。

人によっては、というか社会にとっては、自分のやりたいことが自分の世界を創るという考えた方が尊重される。競争社会だからだ。無論、実態はどうであっても。

 

この理想と実態との乖離に対する妥協点を提示しているとして、伊藤計劃への羨望は尽きない。夢想家だから、戦場で人を殺すことに、自分自身が殺戮マシーンとなって殺していくことに、どこか無頓着な文体が展開される。

 

『ハーモニー』でも、ハレルヤと共に、ミァハは受け入れた。それが至高の状態だから。でも現実の私の感情は、忌避すべき私の感情は、旧来の友人であり心の支えであり復讐の対象であるヒロインのあなただけには、訪れてほしくない。至高の状態を求めたあなたに、理想郷を実現させたくはない。これが矛盾するようで一貫した現実と理想の妥協点なのだ。

 

まあ要は、もっと深くまで言うと、社会からの逸脱だとか不適合だとかそんなことに、ある種幼稚なレトリックをもって、自惚れているのある。それがいいのである。その認識に共感した瞬間に、伊藤計劃という標語はぼくの疎開先になる。

 

以上のことから、ぼくは伊藤計劃にゾッコンなのである。

 

もっともっと自惚れていたい。夢想していたい。

でもそのために必要なのは、自分を排除する現実がないといけない。陳腐な表現だが、日陰であるためには日光がなくてはならない。華やかなアイドルであるためには、キモいロリコンで欲望をぶつけてくるヲタク共を受け入れなくてはならない。

グズグズくすぶる日常のための現実を欲するのである。

 

よく分かんない文章になったが、なかなか酔っ払いの文章である。

 

5日もたっていた

いつのまにか5日経っていたっつうか。

 

この5日に起きたことをまとめると

「ぼーっとしていた」

である。

 

何故こんなにボーッとせなばならないのか。それは現実味の消失である。

 

なにやらいつもいつも浮足立っている。

だから地に足ついた行動ができないのである。

この状態ではよくないと思いながら、はや十年。こんなことがいけないとは十年前から知っているのである。夢想家のこの自分が一体これから何をしていけるというのか。甚だ疑問である。

 

 

「GINZA SIX」の動画が好きな理由


GINZA SIXスペシャルムービー「メインストリート」篇

 

GINZA SIXのスペシャルムービーが好きである。この気持ちをうまくまとめたくて書く。

 

一言で言うと、「銀座をGINZAへ再定義したよ!!来てね!!」というメッセージが、動画でこれほどかというくらいに分かるからである。おまけに行きたくもなる。あと普通に椎名林檎が好き。いつもネガティブというかちょっとマイナス極に重きのある林檎の楽曲が、何かからの解放と言わんばかりに明るい。『都合のいい体』とか『女の子は誰でも』とかを思い出しましたぞ。ああいう感じの壮大なの好きです。

 

冒頭、PR動画とは思えない深刻なBGMと共に椎名林檎が歌いだす。

「我々はどこから来てどこにいくのか?その価値は死んでから~」という大昔からある問い掛けから始まる。どうなんだろこれと思うやいなや降臨!の如く林檎が地面に降り立つと、同時に曲調が一変。俺の登場だ!と言わんばかりにソウルフルな男性の歌声が響きだす。トータス松本である。スポットライトを浴びながら、階段を下りてくる。まさに王道の主人公の登場。存在感がすごすぎる。

林檎が空から降りてきたのに対して、トータス松本は裏路地から出てメインストーリーに向かっていく。

 

ここから終盤までは風船の物語になっていく。

 

銀風船が銀座のあちらこちらで上っていく。浮かれてる街を表現しているのか分からないが、銀座の街も浮かれているどこかで見たことあるダンサーやご老人が(あ、あと斎藤ネコもいた)夜の銀座で踊りまくる。踊るといっても江戸のええじゃないか的な、だんじり祭り的な踊りではなく、あくまで舞い上がるホコリを低めに抑えようという上品な踊りである。

 

そして風船がはじけ、終盤になる。

 

「つらい仕事に~♪」のところで風船がはじけ、その代わりに初めの方からちょくちょく出ていた(というよりもストーリーのメイン)男女が手を取り合って宙へと浮かんでいく。今度はあの人たちが浮かれる番なんですね。GINZA SIXの字面も変わりそうですね。ピアノ線見えないかな~とか内心で思いながら見てしまう。

音楽用語を知らないことを今本当に悔やんでいるのだが、「つらい仕事に~♪」の調子が変わっていくやつは、「転調」といっていいのか?それとも「あ、それCメロ」です。とかそういうやつなのか?もっと勉強すればよかった。

 

とにかくその転調だかCメロを皮切りに落ち着いていく銀座。目抜き通りを、たくさんのダンサーが体をY字にしながら闊歩していく。そのまま家に帰るんですかね。

ちなみにぼくはこの部分がとても好き。本当に銀座の街全体がGINZAという舞台になっているように感じられる。

 

そのまま最後、2人のアーティストが合流。再びスポットライトがあたる。

そして、「目抜き通りへ~!」で2人のアップ!カッコいい~!!!

 

椎名林檎今回も絶賛の百面相っぷりですがぼくは『メロウ』のPVっぽいな~と思いました。ちょっと大塚愛に寄せた感じの。メイクとかでここまで変わるんだから女性ってすごいな~。うちの母親ですら「化け狐」のあだ名をつけられてたらしいからな~。女性ってすごいな~。

 

この1:30の中で、GINZAは舞台だった。

年齢から肌の色まで超えた人々が空中へ向かう風船の如く浮かれ踊り、最後は一丸となって目抜き通りで踊り、そのまま帰宅。GINZAはありがちだが非日常的な空間であり、「もっと迷いたいもっと色めきたい」人たちが行く空間なのである。

 

わたしたちは何のために生まれてきたかもわかんないし、どこからどこへ行くかはわからないのよね。でもさ、その価値って死ぬときに分かるじゃん?だからどうせなら、私はもっとはっちゃけたいのよ!迷いたいし色めきたいのよ!

 

という舞台としてのGINZAなのである。という舞台としてGINZA SIXがあるんです。

 

銀座ってマダムとかそこらへんの世代が行くんでしょ。おばあちゃんが見栄を張るためにこれ見よがしにやれ高島屋三越伊勢丹だって言って向かう場所。あ、あと政治家が秘密の話してそう。

 

そんな銀座が変わるんです。何をどこから変えるって?GINZA SIXから変わるんです。

ほんの命という一瞬が輝ける場所なんです。

 

っていうことが1:30で分かる。そんなストーリーが分かる。

「高級そうな場所」というイメージが、「高級そうな場所で何でこんなにはっちゃけるのか?」の答えに1:30でチェンジしていける。

 

というわけでぼくはGINZA SIXのムービーが好きなわけでございます。

もっと迷いたいもっと観ていたい。と思う今日この頃(じゃあ見てろよ)

 

あとはお金があればな~現地で楽しめると思うんだけどな~

そもそもこのムービーの対象ぼくじゃないからいいんですけどね~

フォースがジェダイを滅ぼしたがるのもよくわかる。

 


映画「スター・ウォーズ エピソード Vlll /最後のジェダイ」日本版予告

 

例えば40人のクラスの中でとってもカリスマ性のある人がいたとします。名前を出川哲郎といいます。出川がリアクションすればみんな笑顔になっちゃうくらいのカリスマだとします。ドロイドもクローンもみーんな出川の味方。

 

そうなるとやっぱり、出川のカリスマ性に対して色んな解釈がされちゃうと思うんです。

 

「滑舌の悪さは現代の汚染された空気に順応しきれていないからだ」

「『やばいよ』はアナグラムである。『刃よ』のアナグラムである。故に我らは戦わねばならない」

「嫌がっているのに熱々のオデンを食べるのか。断っているのに、実行する。相反することのようで一体であることの表れである」

ダチョウ倶楽部という概念もどうやらあるらしい」

 

人間のもつ想像力がハイパースペースに入り込んでどこまでもどこまでも進んでいく。そして膨らみ変容する出川哲郎像。

 

問題は、本人に何か信条というものがあるというわけではないということなんです。ただ出川は生きているだけ。出川はこのクラスで生命活動をしているとしか思っていないわけです。呼吸と同じ感覚で「やばいよやばいよ」ってのたまって熱々のオデンを食べるわけです。肛門から酸素を入れて腕相撲とかするわけです。

 

そんななかで出川哲郎を信望する騎士団と、出川哲郎の陰部を信望するカルト集団が表れちゃって。

出川の陰部を支配するような輩なんかはたま~にクラスを牛耳ったりなんかして。それもことごとく騎士団が抑えたりして頑張るんです。やだもんね。

 

出川からすればたまったものじゃないのです。自分の行動がなんかすごい解釈されてる。すごいもうなんか木製の俺の男根が崇められてる。やばいよやばいよ。

 

だからそれを打倒する騎士団は嬉しいし支持する。わりとあらゆる局面で力を貸すんです。さあ!ぼくの尻を叩くんだ!とばかりに。

ただ、そこで思うわけです。「じゃあ騎士団はなんだよ」「こいつらが結構争いのもとになってね?」と。

 

出川の陰部大好きカルト集団は、出川大好き騎士団の異端児でしかないのです。

 

そこで出川はこう思うんです。「みんな滅んじゃえばいいのか、、、、」

出川がそう思いだした四十年後とかに騎士団の1人も思います。「俺たち、滅びるのが正解なんじゃないか???」出川であろうとすること自体、出川と一体になろうとすること事態がすでに出川の存在を脅かすものであり、そこで到達した出川は出川ではなく、「出川に近づいた何か」でしかないというわけで。

 でも騎士団がそう思った時には、クラスも何回か担任が変わったりそれこそ学級崩壊したり独裁されたり派閥が出来ていたりしてボロボロになっているんです。

 


「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」特報

 

以上これを見て思ったことでした。

「フォースにバランスをもたらす者」であるアナキンがダークサイドに転向してしまったのは、悲劇でもなくまさに予言通りである、っていうのはそうだなあ、と思う日々です。スカイウォーカー一族の運命は恐らく、フォースに波風を立てるやつらの全滅まで続いていくんでしょう。なぜならスカイウォーカー一族の人間のミディクロリアン構成率はハンパがないから。そうであろうとしてしまうから。

 

出川が尻を出すように。

根気なんて呼んでも来ない

「気」の出ない状態というものがある。

 

まさしく今日であるのだが。気圧が低くなってるとか世間様は色んな理由づけをしてくれるのだが、とにかくそういったやる気なんてものは出ないのである。

 

昨日は三つの会社を股に掛けた(面接に行った。ぺこぺこしてきた)

相も変わらず緊張癖が抜けないことは良いのだが、やはり感じるのは自分の芯である。

芯がないことをほとほと感じる。

しかし芯なんてものはぼくにこれまであったのだろうか。あった気もするが、そんなものはキャベツ同様三角コーナーにポイである。レンジでチンしてマヨネーズで食べればいい感じになるとは思うがぼくの芯はどうやら放射線を嫌うらしい。あと回る皿。

 

よく「ご縁」という言葉があるが、それは芯を認められたとかそういうことなんだと思う。正直どうでもいいかな~とかなんとか考えながらではダメなのである。

 

なんだこの自分言い聞かせブログは。よくないぞよくない。

 

 

火が付いた状態。あとその所在。

まさに今の事である。

明け方になって、明日のこともあるし、そろそろ寝なアカンぞ、とそんなことを考えているうちに、なにかすごく愚かな自信が湧き出て、何かを書き上げたくなる時がある。

 

だいたい一日寝かせて見返してみると恐ろしいものが出来上がっているのだけれど、

その時はもう勢いで突っ走る弾丸である。

 

書くこと書くことが楽しくて楽しくて楽しくて。それでいってノリに乗ってくるからitunesから東京事変のアルバムを再生したりして。何かこう溢れ出すものを書いているうちに、無意識にただの椎名林檎の作詞の丸写しになっていたりして。もう表現がゴールなのかタイピングゴールなのかよくわからなくなってくる。

 

でも多分、あのよくわからない状態がゴールなのだとも思う。

 

頭の中と現実が一致にしないのが当たり前。でも今みたいに謎のノリに乗った状態になると、頭の中と現実(画面)が一致してくるのだ。その感覚たるや創造神にでもなったかのような心地である。≪クリエイティブ≫という言葉に誰もが飛びつきたくなるのも分かる。デザインも絵も何もわからないけれどとにかく何か企画したい。別に表現技法も何も手に職も何もないけどね。実際の運営?キツイです、やってください。私は川上に居て発想で勝負したいんです。お願いします。そんなことをしたいんです。出来れば規模が大きければ射精のしがいもあるってもんなので大きいところがいいですね。出来ればお金もたくさんもらえて。学生時代は色々と作品も作ってたんで実績もありますよ。え?関係調整?それはきついっすね。だってやってないし。そもそも人と接するのはね~。となるのである。あ、これぼくの状態ですね。

 

振り返ってみるとよくわかる。まず最初に頭に火が付き、その次に心に火が付く。

この段階がまずいのだ。盲目になって客観視できなくなる。段々冷静さと論理性が必要な段階になって初めて気づくのである。アカンぞこれはと。

そしてお尻に火が付く。

いや火が付けばいいとは思うのだが。

 

こんなことを考えている間に夜が更けていく。

カタチにします

何かと「結論ファースト」と言われるため結論ファーストから書くと、

 カタチにしていかなくてはいけない

ということからこのブログを始める。

 

何かと色々考えているけどいざ何か表現する場になると何も浮かばないし何もしゃべれないというのがこの男である。

 

そんな夢想家(意味はあってるのか???)のぼくが、就職活動という人生の分岐点の真っ只中に立ったこの時点において、カタチにしていくことを見つめなおして、再確認してこうというわけである。逃避行為とも捉えられる所業である。

 

こうやって書いてみると、アウトプットにもいろんな方法がある。

それはメディアのスタイルによっても変化してくるものであろう。

 

伊藤計劃っぽくやると(っぽくはならないけど、マネしてみると)

 

日記。

そう、日記だ。手という入力装置でキーボードという入力装置をやたらいに弄ることで自身を言語化していくこの作業。この作業の中で、ぼくの本質は手とキーボードと文字を経由することで具体化されていく。むしろこの画面の中の文字の羅列がぼくのような気がしてならない。いやそもそも、ぼく自身が――――

 

違う感じがすごい(語彙力)

伊藤計劃はとにかく体と心の分離を感じさせるということでこの文章にしたけれど、何か違う気がしてならない。個人的には「インターフェースでインタフェースを~」といういかにもな文章感を想って書いたが、どうやらアウトプットの技術が足りないらしい。

 

これを背伸び大学生風にやると。

 

日記を書こうと思う。

私のこの成長の記録を、残すことで、そしてそれを見返すことで、大きなバネになると思うのである。とにかく成長したい。社会人として一人前になりたい。企業したい。銀座に行ってみたい。そんで帰り道で意気投合して飲んだオジサンが実は大企業の社長だったりなんかして、地方営業所の所長をひょっこり任されちゃったりして、そんでそっから社長とかになっちゃうサクセスストーリーを思い描くのである。そして希望に満ち満ちたションベン臭い就活生に向かって自身の半生を語り、演台に隠れた自分の下半身が先走り汁でベトベトになるくらいの経験をしたいのである。そのためのバネがこれなのだ。とにかく自分自身をマネジメントしてPDCAをセルフで回してソリューションをプロポサルするとともに結果にコミットしたいのである。

 

これを書いた男はよっぽど説明会で何かを感じたのだろう。コンプレックスをホテルから出たてのホッカホカカップル並に湯気にして感じさせる。

 

アウトプットするスタイルをカタチ作るのはなんなんだろうか。前者は小説家の文体から。後者は背伸び就活生のダダ漏れ文体から。では後者の大本はどっからくるものだろう。成長とか生きがいとかを掲げながら、その実その言葉を上手く配置して全体のカタチにしたときにはえずくような顕示をモヤモヤと発するその文体は、どこから来るのだろうか。

歴史学科の自分としては、入る学科を間違えたような気もしてきたわけで。

 

とにかくこの通り日記というわけで、日々思ったことをカタチにしていく。

読み返しても稚拙で経験不足だが、まあ公開自慰表明としては十分。

 

カタチにしていこうと思います。